翌日から、僕はあっちこっちに連れ回された。
重装備を入れたキスリングザックを担いで、何度も山道を練り歩いた。
陸上部で鍛えたはずの足腰が、とことん悲鳴をあげた。
一方で、爺さんは健脚だ。疲れた様子もなく、時に立ち止まって風を確認しながら、軽い足取りで軽快に歩を進める。
昼食のおにぎりをかじりながら、自分にはフィジカル的な問題があることを再確認した。足腰が決定的に弱い。こんなんじゃ、成績なんて残せるわけがない。1日に山道を20キロは歩いたんじゃなかろうか。背中の重量はすぐに慣れた。筋肉痛も3日目で取れた。でも、厳しい山歩きが続く現実では気休めに過ぎなかった。
逃げよう、と決心したことには1度じゃない。
何度も荷物をまとめて、夜間に逃げる。でも、無理だった。
ゲンゴロウ爺さんは、夜になると、決まって終点のバス停で、いも焼酎のお湯割りを傾けているのだ。何度も出くわしたから、多分、それが日課なのだろう。
バスを待とうとすると、爺さんがニヤニヤ顔をするのだ。
「坊主、逃げるのか?」
僕も自分が恥ずかしくなって「ただの散歩だよっ!」と意地をはる。
終いには聞いた。「ジジイ、ここでもし僕が逃げたら、どーするんだよ」
楽しそうに、爺さんは言った。
「いいんじゃないか?アスリートには、臆病風も必要じゃよ」
それを言われると、自分が急に情けなくなって、しぶしぶ道を引き返すのだった。
今、思うと、たとえ逃げたとしても、ゲンゴロウ爺さんは責めなかったんじゃないかって思う。その意味で、爺さんはとんだ曲者だったし、優しかったし、お節介焼きな人だった。
季節は初夏。僕が山小屋に来て、3週間が経とうとしていた。山道でも、登山客に何組も出くわしたし、空も入道雲が昇るようになった。
「よう、坊主。そろそろ、走ってみたいとは思わんか?」
ゲンゴロウ爺さんが急に、話題を向けた。「そろそろ、体も軽くなったし、もうきっかけもつかんだ頃じゃろ?」
そう言われても、僕には検討もつかなかった。きっかけどころか、いまだに何が何やらわからないまま、がむしゃらな日々が続いていただけだった。
変わったことといえば、川浜コーチに対する負の感情がどうでもよくなってきたくらいか。あまりに川浜コーチを「坊主」よわばりするものだから、エリートの肩書きすらも彼の強がりに思えてきた。実際、爺さんからしてみれば僕と川浜さんは同じ次元の「坊主」でしかないのかもしれない。
「走ってみたいかは知りませんけど、山歩きを休めるなら、なんでもいいっすよ」
僕もゲンゴロウ爺さんと暮らした数日間で、くったくなく話せるようになっていた。
何せ、ゲンゴロウ爺さんは、よくしゃべった。
それに応戦しないと、いくらでも山歩きが過酷になった。コミュニケーションは命懸けだった。