第11話 純文学とワイングラス SIDE A
図書室の窓辺に冬の光が落ちていた。埃の舞う中で、私はページをめくる音に耳を澄ませていた。
「読んでんのか、芥川?」
振り向けば、いつものようにジーパン姿のモヤシが立っていた。
私はうなずく。「でも、ちょっと難しいかなって」
モヤシは隣の椅子に腰を下ろし、私の持っていた文庫本をひょいと取る。「『地獄変』か。俺、こっちより『羅生門』派だな」
すらすらとあらすじを語るその口調に、私は笑ってしまう。
「やっぱ、あんたって、本の虫よね」
「本の虫っていうな。でも、ああいう、余白のある文章が好きなんだよ。料理と似てる気がする。詩的な余韻とか、温度とかさ」
「ロマンチストね。料理に例えるなんて」
「好きなんだ。追いかけようと思う」
「来月、俺、この街を発つんだ」
静かに私の手の中で、本のページがふるえた。
モヤシはポケットから、小さな栞を取り出した。色あせた紙の端に「文学は、生き方だ」と万年筆のインクで書かれていた。
「これ、中学生のとき読んだ太宰の言葉。バカみたいに感動して、ずっと財布に入れてたんだ」
「それを、今、私に?」
モヤシはうなずいた。「あゆみは、本を読む人だから。俺がこの先、どんな料理を作っても、たぶんあゆみなら想像してくれる気がする。味も、匂いも、意味も」
私は何も言えず、ただ頷いた。
モヤシは立ち上がり、帰り際、ふと振り返った。
「俺、行ってくるよ。人生って、小説みたいに一章ごとにしか進めないんだよな」
一拍、呼吸をおいて。
「だから、今度は次の章で会おう。必ず」
その言葉に、私は微笑みながら応えた。
「そうだね。次は、ワイングラス越しに会おうね」
そして彼は、ページを閉じるように、静かに図書室を出て行った。