純文学とワイングラス
第6話 焼きそばキッス(下) SIDE B

「あれは、ほんと大惨事だったわよね」

「奇跡的に怪我人ゼロだったのが信じられない」

私はカフェのテラス席でラタトゥイユを口に運びながら、隣のゆりかにうなずいた。

「結局、阿部先輩、職員室でこってり怒られたんでしょ?」

「うん。私はその頃、気絶してたから知らなかったけど」

「あとで全部聞かされたってわけね」

ゆりかが苦笑混じりに私を見た。

「でも、まさか客席のモヤシくんに一直線に飛び込むなんて……」

「誰よりも私が想定してなかったよ。おかげで演劇の魔法と同時に、二度とやるもんかって決意が芽生えたわ」

「……で? その、唇ぶつけちゃった件?」

「っ、知ってたの?」

私はスプーンを止めた。「でもね、愛も何もない、ただの衝突だから」

「でもそれ、十分ファーストキスって呼べると思うなぁ」

「何が“呼べる”よ。やめてよ、もう」

 

その日の夜、私は「なみのおと」からシティホテルに移動して、少しだけ仕事して仮眠を取り、早朝に帰宅した。

「おかえり。ゆりかは楽しそうにしてたか?」

厨房で仕込み中の旦那が、湯気の中から顔を出した。

「ええ。ファーストキスの話で盛り上がってたわ」

「ああ、あの事故ね。謎の美少女と俺のキスが噂になったやつだな」

「・・・やっぱ、あれって事故じゃなくて、意図的だったの?」

旦那は手を止め、ふっと笑った。

「気を失ってたからさ。つい、ちょっとチュッと」

「おい!それ犯罪スレスレよ!? 見知らぬ美少女に手を出すとか」

「いやいや。ちゃんとお前だって分かってたから、やったんだよ。皆は気づいてなかったけど、俺にはわかったんだ。メガネ外しても、あれはお前だって」

 

「滅多に焼きそば味の唇なんて味わえないしな」

「・・・最低」

その時、ちょうど長女が眠たげな目をこすりながら入ってきた。

「あーパパとママが仲良ししてるー」

私はコーヒーを啜りながら、ぼそっとつぶやく。

「……せめて、気絶してないときにしてほしかったわよ」

 

頬を赤くしながら、私はそっと書斎へと退散したのだった。