「あれは、ほんと大惨事だったわよね」
「奇跡的に怪我人ゼロだったのが信じられない」
私はカフェのテラス席でラタトゥイユを口に運びながら、隣のゆりかにうなずいた。
「結局、阿部先輩、職員室でこってり怒られたんでしょ?」
「うん。私はその頃、気絶してたから知らなかったけど」
「あとで全部聞かされたってわけね」
ゆりかが苦笑混じりに私を見た。
「でも、まさか客席のモヤシくんに一直線に飛び込むなんて……」
「誰よりも私が想定してなかったよ。おかげで演劇の魔法と同時に、二度とやるもんかって決意が芽生えたわ」
「……で? その、唇ぶつけちゃった件?」
「っ、知ってたの?」
私はスプーンを止めた。「でもね、愛も何もない、ただの衝突だから」
「でもそれ、十分ファーストキスって呼べると思うなぁ」
「何が“呼べる”よ。やめてよ、もう」
その日の夜、私は「なみのおと」からシティホテルに移動して、少しだけ仕事して仮眠を取り、早朝に帰宅した。
「おかえり。ゆりかは楽しそうにしてたか?」
厨房で仕込み中の旦那が、湯気の中から顔を出した。
「ええ。ファーストキスの話で盛り上がってたわ」
「ああ、あの事故ね。謎の美少女と俺のキスが噂になったやつだな」
「・・・やっぱ、あれって事故じゃなくて、意図的だったの?」
旦那は手を止め、ふっと笑った。
「気を失ってたからさ。つい、ちょっとチュッと」
「おい!それ犯罪スレスレよ!? 見知らぬ美少女に手を出すとか」
「いやいや。ちゃんとお前だって分かってたから、やったんだよ。皆は気づいてなかったけど、俺にはわかったんだ。メガネ外しても、あれはお前だって」
「滅多に焼きそば味の唇なんて味わえないしな」
「・・・最低」
その時、ちょうど長女が眠たげな目をこすりながら入ってきた。
「あーパパとママが仲良ししてるー」
私はコーヒーを啜りながら、ぼそっとつぶやく。
「……せめて、気絶してないときにしてほしかったわよ」
頬を赤くしながら、私はそっと書斎へと退散したのだった。