私は今、仕事の気分転換に、ゆりかの運転で「喫茶なみのおと」へ来ている。
街角にひっそり佇むこのカフェは、知る人ぞ知る地元の人気店。静かで落ち着いていて、それでいて簡素すぎず、ちょうどいい。ここは、私たちの秘密基地だ。文章が書けなくなると、決まってここに来て、ムクムクっと、物語の芽が顔を出す。
大学が別々になった私たちは、卒業式のあと、タクシーを呼んでこのカフェへ向かった。
「いいところに連れてってあげるね」
夕暮れの光が差し込む店内に着いた時、私はふと尋ねた。
「どうやって見つけたの?」
「裕史くんよ。覚えてる?」
思わず言葉を失った。モヤシ――あの夏の恋の相手。
「彼、ここで働いてたの」
思い返せば、あの時のドレスシャツは制服だったのだ。この店で、彼は未来の準備をしていた。
「親の事業が縮小して、街から撤退することが決まってたんだ」
と、モヤシは言いながら、私の頬を突いて、頭を撫でる。
まだ幼い2人の娘に見せられない、夫婦だけの甘いやりとり。
彼の選択は、フランスへの留学。飲食業の厳しい世界へ飛び込む覚悟を、16歳の彼は決めていた。
「最初は横浜。それからフランスへ。現地に親戚がいたんだ」
「学費、大変だったんじゃない?」
「まぁ、若かったし、働きながらなんとかなった」
10年後、彼は私を迎えに来た。それが、すべての答えだから。
「ねぇ、私には感謝しないの?」
チャイをすすりながら、ゆりかがいたずらっぽく笑う。
そう、修行を終えたモヤシを見つけたのは、ゆりかだった。東京の広告代理店に勤める彼女は、偶然再会したモヤシを私の担当編集者に紹介し、再会の舞台を整えた。私は今、しがないながらも作家として生活している。
「感謝してるわよ。恋敵を演じてくれたことも含めてね」
私はブラックコーヒーを一口すすり、チョコをつまんで、ノートパソコンをそっと閉じた。