君よ、風になれ!
第15話

時は、それから32年後。2066年10月吉日。

居酒屋「いつき」にて。

 

「やまちゃん、いらっしゃい」

店主はのれんをくぐった一人の壮年の男性に声をかけた。

やまちゃんと声をかけられた男性はひとり、姿勢を崩さず、カウンターに座る。

常連なのだろうか、店主と親しい。

店主が差し出すおしぼりで、顔を拭きながら、男は鞄を傍においた。

ビールと枝豆が、ごく自然にカウンターに並ぶ。

「いつき、知ってるか?」

店主は言われて、にやりと笑い、壁に貼った新聞を指差す。

スマートフォンが常識となった日常だが、こういった味の出る演出は紙にしか出せない。

「もちろん。ふうただろ?」

誌面では、コーチジャケット姿の厳しい顔の男性を、数人の体格のいい若い選手たちが取り囲んでいる。

「ニュースに出たんだよな。今をときめく名門 四菱造船の名将だ」

白髪混じりの頭をぺちゃんとたたき、やまちゃんはいつきが差し出すジョッキに一口つけた。

枝豆をつまんで、ため息をつく。

「あいつは、昔から特別だ」

やまちゃんがこぼした。

「あのふうたがか? 俺は、あいつと殴り合ったことしか思い出せないけどな」

と、いつきが笑う。

「そのせいでどれだけ、俺たちが迷惑したと思ってるんだ」

愛想のいい顔でくくっと笑う2人。

店主が入り口の気配に気づいて、笑顔をつくった。

「いらっしゃい」

のれんをくぐる、ひとくみの子供連れ。小柄で品のいい、かっぷくのいい壮年の女性と就学前の女の子。

「おう、きたか。ひよりちゃん」

「やまちゃん、いつきくん。お久しぶり」

女性はやまちゃんの隣に座り、酎ハイを頼んで、壁に貼られた新聞を見た。

「突然、連絡がはいってびっくりしたわよ。ニュースにふうたくんが出たんでしょ?」

「そうそう」

店内には、数人の客で賑わっていて、よばれた店主は追加の注文にとりかかった。

もとから大きな店ではないがそれでも、盛況といっていいだろう。

「あいつ、ずいぶん遠いところにいっちまったよな」

「何いってんの。みんな、心はずっとそばにいるわ」

ひよりちゃんの口調も軽い。子供にはオレンジジュースを頼んで、店の隅にある絵本をもたせる。「ばあば、この新聞のおじさん、誰?」

指差した新聞に興味を持つ子供に、ひよりちゃんは笑った。

「あら、イケメンだと思わない? お祖母ちゃんの初恋の相手よ」

 

あれから。

ふうたは、派手に予選に敗退した。

国民体育大会成人種別 福岡大会県予選3位。

注目が集まった。

キャリアのない、まったく無名の新人が上位に食い込んだのだ。騒がれないはずがない。

栄誉ある場で、それでも、ふうたは涙を流して悔しがった。

その性格と根性に興味を持ったのが、四菱造船のスカウトたちだった。

 

「それから、とんとん拍子で、手が届かない存在になったんだよな」

やまちゃんがグビリとジョッキを傾ける。

「法務局の課長様が言うセリフかよ?」

いつきが景気良く笑う。

「お前こそ、営業成績1位をあっさり捨てて、居酒屋経営だろ。よくやるよ」

「いいなぁ、私なんか、もうこの歳で孫持ちよ。旦那の転勤がなかったら、この町にも戻っていないわ」

大きくため息をつく3人。

ふと、いつきがちらりとスマートフォンを見た。

時計は夜の9時を回っている。

「そろそろ、みんな。心の準備はできたか?」

気を引き締める。

「さっき、奴が駅についたんだってさ。まっすぐ、タクシーで向かっているそうだ」

3人は笑顔だ。

旧友との32年ぶりの再会。いったい何を話すのか。話は尽きないことだろう。

 

ちょうどその時、扉が開いて、懐かしい人影がのれんをくぐったのだった。

 

(了)