時は、それから32年後。2066年10月吉日。
居酒屋「いつき」にて。
「やまちゃん、いらっしゃい」
店主はのれんをくぐった一人の壮年の男性に声をかけた。
やまちゃんと声をかけられた男性はひとり、姿勢を崩さず、カウンターに座る。
常連なのだろうか、店主と親しい。
店主が差し出すおしぼりで、顔を拭きながら、男は鞄を傍においた。
ビールと枝豆が、ごく自然にカウンターに並ぶ。
「いつき、知ってるか?」
店主は言われて、にやりと笑い、壁に貼った新聞を指差す。
スマートフォンが常識となった日常だが、こういった味の出る演出は紙にしか出せない。
「もちろん。ふうただろ?」
誌面では、コーチジャケット姿の厳しい顔の男性を、数人の体格のいい若い選手たちが取り囲んでいる。
「ニュースに出たんだよな。今をときめく名門 四菱造船の名将だ」
白髪混じりの頭をぺちゃんとたたき、やまちゃんはいつきが差し出すジョッキに一口つけた。
枝豆をつまんで、ため息をつく。
「あいつは、昔から特別だ」
やまちゃんがこぼした。
「あのふうたがか? 俺は、あいつと殴り合ったことしか思い出せないけどな」
と、いつきが笑う。
「そのせいでどれだけ、俺たちが迷惑したと思ってるんだ」
愛想のいい顔でくくっと笑う2人。
店主が入り口の気配に気づいて、笑顔をつくった。
「いらっしゃい」
のれんをくぐる、ひとくみの子供連れ。小柄で品のいい、かっぷくのいい壮年の女性と就学前の女の子。
「おう、きたか。ひよりちゃん」
「やまちゃん、いつきくん。お久しぶり」
女性はやまちゃんの隣に座り、酎ハイを頼んで、壁に貼られた新聞を見た。
「突然、連絡がはいってびっくりしたわよ。ニュースにふうたくんが出たんでしょ?」
「そうそう」
店内には、数人の客で賑わっていて、よばれた店主は追加の注文にとりかかった。
もとから大きな店ではないがそれでも、盛況といっていいだろう。
「あいつ、ずいぶん遠いところにいっちまったよな」
「何いってんの。みんな、心はずっとそばにいるわ」
ひよりちゃんの口調も軽い。子供にはオレンジジュースを頼んで、店の隅にある絵本をもたせる。「ばあば、この新聞のおじさん、誰?」
指差した新聞に興味を持つ子供に、ひよりちゃんは笑った。
「あら、イケメンだと思わない? お祖母ちゃんの初恋の相手よ」
あれから。
ふうたは、派手に予選に敗退した。
国民体育大会成人種別 福岡大会県予選3位。
注目が集まった。
キャリアのない、まったく無名の新人が上位に食い込んだのだ。騒がれないはずがない。
栄誉ある場で、それでも、ふうたは涙を流して悔しがった。
その性格と根性に興味を持ったのが、四菱造船のスカウトたちだった。
「それから、とんとん拍子で、手が届かない存在になったんだよな」
やまちゃんがグビリとジョッキを傾ける。
「法務局の課長様が言うセリフかよ?」
いつきが景気良く笑う。
「お前こそ、営業成績1位をあっさり捨てて、居酒屋経営だろ。よくやるよ」
「いいなぁ、私なんか、もうこの歳で孫持ちよ。旦那の転勤がなかったら、この町にも戻っていないわ」
大きくため息をつく3人。
ふと、いつきがちらりとスマートフォンを見た。
時計は夜の9時を回っている。
「そろそろ、みんな。心の準備はできたか?」
気を引き締める。
「さっき、奴が駅についたんだってさ。まっすぐ、タクシーで向かっているそうだ」
3人は笑顔だ。
旧友との32年ぶりの再会。いったい何を話すのか。話は尽きないことだろう。
ちょうどその時、扉が開いて、懐かしい人影がのれんをくぐったのだった。
(了)